「犬はしない」あとがき
さて、この「犬はしない」ですが、自分の中では問題作です。
これは我が家のコロ姫ちゃんが家でだらだら寝てばっかりいるのをみて思いついた話です。
そこまでは良かったのですが、その頃考えていたことで、犬が人間の中に混じって生活して行けるのは何故だろう?他の野生動物はどんどん生活する場所を奪われていると言うのに。そして、力とは何か?いかにして力を得るのか、といった内容も含まれています。そして、理想の犬とは何だろう?という問いに始まって、社会組織に於ける理想の人間とは何だろうという所まで進んでいます。
そして、人間がもっとも無防備な状態についての思想も込めました。
以下は自分なりの考え方です。全て自分の中の仮説であり、間違っている所もあるかもしれませんが、それについてのご意見は無用です。
さて、犬が人間と生活して行けるのは人間の存在あってこそだと思っています。発生は自然のものだとしても、時間的なものと、進化の過程で人間あっての物ではないかと思います。
人間に寄生する事、もっと言えば、人間にとって媚びる事、都合の良い存在である事が大事なのではないかなあと。犬ははむかわないと言うのはそういう意味です。
そこには、そうでない事に於けるネガティブな希望という事実も込められています。
次ですが、かわいさという価値観があります。
良い物を作ったり、仕事を効果的にこなすと言うのには、それをなすものの実力が必要で、そして、その強力な実力を持つものには、多くの場合、それに見合った利益と言うものが発生すると思うのです。しかし、並大抵の人間はそれを身につける労力と才能を持ち合わせない事が多いと思います。
そこで、このかわいさ、と言うのに注目すると。
その実力者にかわいさで取り入る事により、その分野でのそこそこの実力を持つものよりも、利益の恩恵を実力なしに受ける事が出来るのではないかと思うのです。
生物の生存本能としてはこのかわいさと言うのは、角や、擬態と同じく生きるための武器のひとつなのだろうなあと思います。
そこで、理想の犬とは何かと思えば、かわいさと言うのは一つのポイントではないかと思います。
しかし、もう一つ重要なものとして人間に不利益をもたらさないと言うのがあると思うのです。
もたらさない、余計な事をしない、ゆえに犬はしないのです。
縦型社会における組織の中においては、実力の差、かわいさ、飼い主、飼われる者、これにあてはまる部分も多いのではないかと思ったのです。
付け加えですが、自分は人間の個体がもっとも弱体化する時は思考する能力を奪われた時だと思います。人間がもつ武器は組織力と思考力だと思っています。
お酒を飲んだ時は無防備になるし、マインドコントロールも思考力を奪った所に行う方法もあるようですし、全体主義や怪しげな宗教などの思想的なものにとり憑かれればそれについて考える事が無くなる危険性があります。
なので、他者にとっては無防備でいつでも息の根を止められる状態、操りやすい状態、として考えない状態をオチに持ってきてみました。
といった内容を込めたつもりです。
物語の構成としては、まず本当に犬はしない事、そして擬人化、そして、本当の犬はする事で逆説的な表現、そして、本当にそうかどうか分からないところで終るという作りです。